この写真を見たときの衝撃がどれほどだったかというのは、あなたがクライマーならば語るまでもないことだ。
2022年春、僕は衛星写真から新潟周辺のボルダーを探すのが日課になっていた。ときどきよさそうなエリアを見つけては現地に赴き、ときにはため息をついて帰ってきて、ときにはちょっと良い岩を見つけてひっそり登ったりしていた。
そんなときに見つけたのが「飯豊玉川ボルダー」である。
飯豊連峰は山形県と新潟県にまたがる山脈で、2128mの大日岳を最高峰とする。
そんな飯豊山地周辺の川を衛星写真で見ると、上から下まで岩がゴロゴロ転がっていることが確認できた。高山の裾野というのはボルダーや岩場のよき土壌であることが多い。
とは言っても、それらが未登であるという保証はない。衛星写真でわかるほどの岩場にはたいてい先駆者がいるので、まずは先人の足跡を探すことが先だ。
そんな中見つけたのがこのブログと写真である。
http://suzukiite.seesaa.net/article/26567816.html
ブログタイトルには「飯豊玉川ボルダー」とある。日付は2006年10月26日。本文はなく、内容はこの写真一枚だけ。
タイトルと写真の雰囲気から、僕があたりをつけていたエリアであることは間違いない。そして、コメントにある方の名前、他のブログの記事から、このブログの主は昔の新潟のクライミング界隈の方で、おそらく部活の先輩であることもわかった。
なんということだろう。こんなに強烈な岩が、こんなに近くにあり、16年も前から見つかっているのに公にもならず、しかも過去の先輩方が登っていたとは。
奇跡のような偶然に喫驚しながら、まずは岩を探しに行こうと決めた。
7.1
山形方面に車を走らせ、関川村から小国へ県境をまたぎ、県道15号に入る。とりあえず入れるところまで車で行ってみようと、飯豊山荘を目指すが、この日は大雨の影響で梅花皮山荘の地点で通行止めであった。
己の確認不足に呆れるが、仕方がないので梅花皮山荘より下流の玉川渓谷にて岩探しを始める。
この地特有の地形に苦しめられながら、岩のありそうな場所を探す。が、ほとんどの岩は水没していたか、高さや傾斜がなくクライミングの対象とはなり得ない岩ばかりだった。
そして後から気づいたことだが、この川は今が雪解け水が流れ込む季節であるらしく、今は一年を通して最も水量が多いらしかった。
下流エリアにはほとんど可能性がないことを確認し、通行止めが解除されて水量が落ち着いたらまた来ようと思った。
7.30
通行止めが解除されたことを確認して、二度目の偵察。
(さて、これを読んでいる方の中には「なぜブログの主に連絡を取らないんだ?」と思った方もいるかもしれない。もちろんそれは連絡をとっているのだが、返信をいただけていない状況である。おそらくクライミングは引退されているようだし、16年も前のことを知らないやつに聞かれても、「変なやつから変な連絡が来た」としか思わないのが普通かもしれない。そもそも、岩がそこにあるということを知れただけで僕にとってはとてつもなく大きな情報なので、ブログの先輩には感謝しかない。)
前回探せなかった、梅花皮山荘より上流のエリアを探す。
梅花皮山荘〜飯豊山荘間の川にも大きな岩はあるものの、軽く見た限りでは登って面白そうな岩はなかった。それに、あの写真に写っている川よりも明らかに川幅が広い。あの途轍もない岩は、飯豊山荘より上流にあるとみて間違いないと思った。
飯豊山荘の駐車場に車を停める。近くで釣り竿を持っている方がいたので、写真を見ていただき、「この岩を知らないか」と聞いてみた。岩自体は見たことがないとのことだったが、背後に写っている山の稜線が梅花皮山に見えるので、ここよりさらに30分ほど上流に歩いたのあたりではないか、と教えてくれた。
さすが、川のことは地元の釣り人に聞くのが一番だ。とても有益な情報をお聞きすることができた。
車で入れるのはここまでなので、空身でダート道を歩く。途中森の中を歩く道(けもの歩道)があったので、そちらに入り、川の様子を木々の隙間から伺いながら歩く。20分ほど歩くと分岐に当たり、川では工事をしていた。
川には大きい岩がいくつか見えたので、工事現場に邪魔にならないように注意しながら川べりを下っていく。しかし、目的の岩は見つからない。かなり大きい岩はあるものの、ほとんどの岩は流水によって磨かれておにぎりのような形をしているし、ホールドらしきものが見当たらない。
川の蛇行によって、右岸は歩けるが左岸は歩けない、左岸は歩けるが右岸は歩けない、と頻繁に渡渉を要求されるし、飛石も乏しいので川をざぶざぶ歩かなければならない。そうしているうちに、濡れた体を好むアブが大量によってくる。誇張なしで、数十匹のアブが突撃してくる。体の前で無造作に手を振るだけで、数匹のアブがぺちぺちと手の平に当たるくらい。
悠長に歩いていると食われるので、ダッシュで手を振り回し、アブを殺しながら川を下っていく。もし誰かに目撃されていたなら相当滑稽だったに違いない。
1kmほど降ったところで、両岸が岩壁のポイントに当たり、これを越えたら戻れなそうだったので撤退。帰りもアブの大群に襲われながらダッシュで帰還。
飯豊山荘側から降りて遡行しようかとも考えたが、アブのあまりの多さにそれどころではなく退散。結局、そこにはないという情報は得られたが、釣り人の方の情報は当たってはいなかったようだ。
8.28
縁あって、飯豊玉川ボルダーの事情に詳しそうな方をご紹介していただく。
ご連絡すると、なんと「そのブログを書いてはいないが、その写真に写っているのは自分である」ということだった。そしてありがたいことに、ボルダーの場所や詳しい事情を教えていただいた。
そして、その方曰く、知る限りでは誰も登っていないらしい。
結局己の力で見つけるに至らなかったことは悔しいが、かなり事情が詳しくわかってきた。ご紹介してくださった方と教えてくださった方に非常なる感謝を示したい。
9.19
あれだけ探したのに、場所を教えていただいたら岩はいとも簡単に見つかった。
詳細はあえてここには書かないことにするが、あまりにも拍子抜けするような場所にあったので、自分の岩探し力の無さが少し悲しくなった。岩を探す嗅覚には自信がある方だったのに。
写真で見るよりもかなり大きく見える。そして威圧的な傾斜。近づくとその大きさをさらに強く感じたが、それ以上に驚いたのは下地だ。
写真から察してはいたが、下地が大きくえぐれており、下方向へ傾斜している。岩のリップ直下は1.5mほど下地が下がっている。登れば登るほど下地が下がり、リップ付近は岩の高さで5~6mほど、下地の抉れで1.5mほど、合わせて6.5~7.5mほどの高さになっている。
岩の高さ、傾斜、下地の恐ろしさ….全て含めて、あまりにも恐ろしく美しい岩だ。
しばらく岩の周りをうろうろしてから、駐車場に戻ってマットを運んできた。
かなりしんどいアプローチをこなして4枚ものマットを運んできたのに、この岩の下に敷くとスカスカに見える。
ラインを探る。写真で想像するよりも横幅は広くはなく、登れるとしたら左カンテか右カンテだろう。左カンテには途中に大きなホールドがある。傾斜面に苔が生えている場所もあり、苔を落としたらホールドが出てきそうな雰囲気だ。
右カンテにはカンテ以外弱点がほぼないように見える。
左カンテを登ることにした。
スタートになりそうな顕著なホールドは手の届く範囲にないので、届くホールドから地ジャン気味にスタートした。
ほとんどのホールドには苔が詰まっていたり、虫の死骸や蛹が詰まっていたり、蜘蛛の巣が貼られていたりしていて、持ち感が安定するのに時間がかかった。スラブや垂壁なら、ブラシを持って行って登りながらブラッシング、ということもできるだろうが、この岩の傾斜は120°か130°はある。ホールドもサイドやアンダーが多く、片手で安定できるポイントはない。パモで届く範囲はパモで磨きながら、あとはなんとか登りながら素手で苔をむしったり、ゴミや埃を払いながら掃除した。
そうしながらムーブを組み立てていくと、中間部までは各ムーブはそれほど難しく無さそうだということがわかった。
リップから2手ほど下に三角の大きな水平棚があり、下から見る分にはしっかり持てそうに見えるのだが、そのホールドにはデッド、またはランジする必要がありそうだった。そこまでいくと、下地は大きく下がり、もう戻ることは不可能そうに見えた。
意を決してトライ。棚へのデッドは難しくはなく、足も切れずに成功した。しかし、岩を掴んだというよりは苔を掴んだという感触だった。水平棚はほぼ完全に厚さ1cmほどの苔に覆われており、かなり湿っていた。
全く持てそうな感じがしなかったが、戻るにも戻れないので、とにかく片手でなんとか苔を剥がす。前腕に血が回らなくなり、感覚がなくなってくる。
マントルを返せるようになるまでにはあと3手か4手はある。この状態で突っ込めるはずがないと思った。しかし、下地はもう傾斜しており、マットの上に着地できるかもわからない。
数十秒は迷ったと思う。迷った末、降りることを選んだ。なんとかして体を振ってマットの上に着地…できたのは片足だけだったが、とりあえず怪我なく降りることができた。
水平棚を下からブラッシングしようと思ったが、パモの長さが足りずできなかった。
どうしようもないので、その後も2回ほど、水平棚にデッドして、苔を素手で剥がして、決死の着地、を繰り返す。チョークバッグを持っていき、チョークも入念にまぶした。水平棚をマッチするムーブも出すことができた。このムーブもなかなか恐ろしい。
そこから上はホールドははっきりしており、ほとんど迷う余地はなさそうなのだが、そこまでいくと今度こそ絶対に戻れない。
しばらくレストしてトライ。登れた。
水平棚より上のホールドはかなり苔がびっしり生えており、またもや苔を剥がしながらのトップアウトになった。岩質なのか苔質(?)なのか、剥がせば綺麗に剥がれるような苔だったので助かった。
後日、かなり入念に各方面に確認した結果、ほとんどの方は知らないか、知っていても「登った人は知らない」ということだった。やはりかなりかっこいい岩なので、認知している方はいるようだ。中にはトライしていた方もいたが、やはり登ってはいないらしかった。
悪魔の証明になってしまうので、暫定的ではあるが、この課題の初登とさせていただきたい。
課題名は「天空の庭」、グレードは1級。
傾斜面の中央からスタートし、カンテを使いながら直上。
スタートは明瞭なホールドがなかったので特に指定しない。地面に立って届くところからスタートすればいい。
課題名の由来は….マントルを返してみればわかると思う。ぜひグラウンドアップで、怪我しないようにトライしてほしい。
自然公園の中だと思われるので、トライやアプローチは自由にして構わないと思う。
場所に関しては、あえてここでは書かない。ぜひ自分の目と足で探してほしい。そんなに難しい場所にあるわけではない。これは、初登の追体験として探す過程を楽しんでほしいというのが半分、もう半分は、この課題の危険さから、あまり万人がトライするような課題にはなってほしくないというのがある。
アプローチも簡単ではないし、電波も通じない。課題の内容もロケーションも、致命的な状況に繋がる要因が揃いすぎているのだ。
もし、どうしても見つけられないということであれば、なんらかの手段で自分か知ってそうな人に連絡してほしい。僕も最終的には教えてもらって見つけた側なので、そのときは快くお教えする。
このあたりに詳しい山形の開拓クライマーの方(わかる人にはわかるだろう)いわく、1992年には発見されていたそうだ。
はじめに見つけたブログの日付が2006年。それですら発見から10年以上経過していたとは。
最も古い発見からちょうど30年。新潟のクライマーによってトライされてからは16年。時を経て、この岩に再び息を吹き込むことができたと考えると、非常に感慨深い。
岩はただそこにあるだけだ。そこに意味を付与するのは人間で、見て美しいと思うのも、登って楽しいと思うのも人間の勝手な感想に過ぎない。
けれど、まるで台座のような河岸の上に静かに鎮座し、苔に覆われながらも静かにその威光を放つこの岩を見ると、まるで誰かに登られるのを待っていたような、そんな気持ちになる。
多くの人にトライされることはおそらくないだろう。またすぐにホールドは苔に覆われてしまうかもしれない。それでも、この岩はきっと、誰かに登られるのを静かに待っている。そんな気がしてならない。